卒業礼拝での気づき。

  • 2008/03/29(土) 23:10:35


マリモモちゃんに続き、
今日からブログ執筆の新妻(元ミス・アバンチュール、略してミスアバ)です。
まじめに感じたことをいつもと違うモードで書いてみます。

修了の日,感じたこと。

24日、修了証書を受け取る前に、卒業礼拝に参列しました。
クリスチャンではないですが、ミッション系の学校を転々(4校目)としてきた私にとって、
立教大学に通いながら、きちんと学校礼拝に出たのは初めてのこと。
チャプレンの講話のなかに聖書の『善きサマリア人の話』が登場し、
胸をつまされるような思いを抱いてしまったのは、実に高校以来でした。

サマリア人の話とは... (長いですが、ご拝読を)

ある律法の専門家が立ち上がり、彼を試そうとして言った、
「先生、わたしは何をすれば永遠の命を受け継げるのでしょうか」。
イエスは彼に言った、
「律法には何と書かれているか。あなたはそれをどう読んでいるのか」。
彼は答えた、
「あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神なる主を愛さなければならない。そして、隣人を自分自身のように愛さなければならない。』
イエスは彼に言った、
「あなたは正しく答えた。それを行ないなさい。そうすれば生きるだろう」。
しかし彼は、自分を正当化したいと思って、イエスに答えた、
「わたしの隣人とはだれですか」。
イエスは答えた、
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗たちの手中に落ちた。
彼らは彼の衣をはぎ、殴りつけ、半殺しにして去って行った。
たまたまある祭司がその道を下って来た。
彼を見ると,反対側を通って行ってしまった。
同じように一人のレビ人も、その場所に来て、彼を見ると、反対側を通って行ってしまった。
ところが、旅行していたあるサマリア人が、彼のところにやって来た。
彼を見ると、哀れみに動かされ、彼に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやった。
彼を自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、世話をした。
次の日、出発するとき、二デナリオン (通貨)を取り出してそこの主人に渡して、言った、
『この人の世話をして欲しい。何でもこれ以外の出費があれば、わたしが戻って来たときに返金するから』。
さて、あなたは、この三人のうちのだれが、強盗たちの手中に落ちた人の隣人になったと思うか」。
彼は言った、
「その人にあわれみを示した者です」。
するとイエスは彼に言った、
「行って、同じようにしなさい」。(出典「ルカによる福音書」第10章第26〜37節)



その歴史的背景ですが、サマリア人は元々はユダヤ人と同じ民族であり、同じルーツの信仰を持っていたといいます。。
しかしイエスの時代は、まるで戦前の日本人が朝鮮の人に対し抱いたように、ユダヤ人は純血でないサマリア人に軽蔑のまなざしを持っていました。

このサマリア人の話が由来で、近年、日本でも医療の世界で議論になっており、アメリカやカナダで善きサマリア人の法として施行されている考え方があります。

誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、と。

つまり、 「急病人など窮地の人を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人にできることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」。(出典ウィキペディア) というものです。

人助けと思い、力を尽くしたことが結果として「ただのおせっかい」になってしまうこともあります。 しかし、たとえ失敗したとしても、その失敗を咎めることは、善意を踏みにじることになります。
良かれと思ってやったことが最悪の結果に終わってしまう...年齢もバックグラウンドも個性の違う大学院の院生のグループワークでもそのようなことは多々起こります。


思えば...聖書のことばを紐解くこともほとんどなくなっていました。

サマリア人の話の後に、うら若き10代の頃、毎日と学校礼拝で唱え(させられてい)たアッシジの聖フランシスコの平和の祈りが、心に染みました。
新たな門出の日のはずなのに、ふと自分が過去の中にいる気がしました。

毎日の忙しなさに、様々なことばを忘れかけていた私にとって、卒業礼拝は立教大学の思い出だけでなく、自分を見つめなおす時間を与えてくれました。

この学び舎は、そこに存在する限り、またいつかの自分に立ち返る場所になることに、違いないでしょう。


(あ、そうそう。今更ですが、できればこのチャペルで挙式したかった...と切に思います。)

                                             From ミスアバチャペル